9月から学校も始まり、通勤途中で通り抜ける
地方都市の信号で止まっている間に通学途中の子供たちを
観察するのが好き。

身体に対して巨大なリュックサックに背負われている子、
逆に筆箱ぐらいしか入らなさそうなちっちゃーいリュックの子
(統一されたランドセルフォーマットはないみたい)

低学年の子は親が学校まで送るようだけど、
親子三人全員がサングラスかけて登校中かと思えば、
バイクで送っていく父親の姿も。
(娘の頭がグラグラしているところをみると、
ヘルメットが重いのか、睡眠継続中なのか)

はたまたある子を送っていっていたのは
眉毛にピアス、全身スエット姿のこわそうなお兄さん。
(父親でなく、兄であることを願う)



話が大きく変わって、言語とか言葉について最近考えている。

 前から興味のあるテーマ。

ちょこちょこ書いている通り、私はスロバキアとかクロアチアにいくと
なんとなく40%ぐらい分かる。
同じスラブ語だから。

たぶん昔は同じ言葉だったんだけど、それぞれの国でだんだんと
それぞれの発展を遂げた。

で、結果として、ロシア人がスロバキア語をきくと、
何百年も昔の言葉で話しているようにきこえる。
「汝は~」
「授けたらん」

とかそんなノリのことを現代の人たちが言っているかんじ。Σ(゚Д゚)

もっと具体的に言うと、

例えば

「Palitsa」(パリツァ)

スロバキア語では「棒」を指すらしいんだけど、
ロシア人にとっては昔の騎士が持っていた金棒みたいな武器を指す。

ということで、この言葉をきいて

スロバキア人の頭の中
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ロシア人の頭の中

金棒.JPG

形状はなんとなく一緒…
もとは同じものを指す言葉だったのも察しがつく。
どこではき違えたのか?というか、どっちが?

例をもういっこ。

「Izba」(イズバ)

この言葉をきくと

スロバキア人の頭の中 (ホテルとかの部屋)
fig-01.jpg

ロシア人の頭の中(藁葺き屋根とかの木造建築)
изба.jpg

手軽に時代錯誤が起きていることがお分かり頂けるでしょうか?
きっとどこかの時点である言葉はロシア語の中で発展というか
変化し続けたのに、スロバキアとかではそのままでいたらこうなったと
思われる。

趣味でスロバキア語を習っているロシア人の友達に、
逆にロシア語がどうきこえるかきいてみた。

「なよなよしてきこえるらしいよ」

との回答。

要するに、オカマ的ということか?!Σ(゚Д゚)

先日オーストラリア人(英語ネイティブ)と
英語のいろんな慣用句の話をしていて(またついそんな話)( ・∇・)

「ここ(店とか)を出よう」っていうのを
let's go とかlet's departとも言えるけど、
ネイティブ表現では
let's bounce ("跳ねていこう"にきこえる)とか
let's hit the road ("道にぶち当たっていこう")とか
あげくの果てに
let't hit frog and toad
("カエルやヒキガエルにぶち当たっていこう")とか
と言うらしい!

こんな言い方が生まれた背景を想像してみたりして…

最近旦那さんが私の趣味を考慮して買ってくれた本を読んでいる。
「言語が違えば、世界が違って見えるわけ」

かなり面白い!ひたすらに言語とは何かについて考えている本なんだけど。

例えば、言葉は思考に影響を与えるか?という問題や
昔の人たちは今ほどいろんな色の名前を持っていなかったので
海を「葡萄酒色」と言ったり、羊を「すみれ色」と言ったりしていた話。

「私の右」「私の左」
という言い方をしないというかできない言語すらある。

オーストラリアのアボリジニなんだけど、
「私の北」とか、「あなたの南の方にノートを置いています」
という言い方をする言語らしい

では、その人たちが「右」「左」を理解できないかというと、
そういうことでもない。
情報伝達をするに当たり、何をどうしても伝えたいのかの問題なのだ。

例えば、一つのものなのかいっぱいあるものなのかに重きを置いている
言語では英語のように ~s とつけて単語の中で表現をするけど、
日本語はあまり重きを置いていないので強調する時以外は曖昧なまま。

Apple → Apples (りんごが複数ある)
りんご → りんごたち、とは言わない


言葉は何代も何代も話されて固まってきたので
言葉の一つ一つにその民族が生きてきた歴史が詰まっているというか
でもそれを意識して誰も話さない、というのがまた面白い。